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2018年11月 9日 (金)

画家 『 大谷 郁代 』

肖像画家『鈴木 博詞』の影響で、写実絵画に深く興味を持つ様になりました。  ロシアの『セルジュ・マーシェニコフ』もいい、日本の『岡 靖知』も素晴らしい、・・・・・。  そんな時、ツイッターの人物紹介で知った『大谷 郁代 さん』の作品に、女性が持つ繊細な描写に感動しました。  画材が、鉛筆・木炭・アクリル絵の具・油絵の具と多彩で、基本的にパステル画と言うのですから驚きです。  『大谷さん』は 絵画の製作と同時にパステル画教室を主宰し、大勢の方に描き方を指導もされている様です。  また 多くの画家に影響を与え、支持を受けている才覚ある“女流画家”です! 

annoy 写真をクリックすると画像が拡大します。     

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『大谷 郁代さん』が描くモデルの多くは、柔らかいタッチで描く女性で、バレリーナを題材にした作品が多い様です。  どの作品も 写真の様に精密で、それでいてソフトに仕上げる技法は、正に圧巻です。  

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作品の中に『大谷さん』が飼育する“インコ”が、良いポイントに配置されています。  私も“愛鳥家”ですので、興味深く拝見しています。  小鳥(野鳥を含む)や動物がメインの作品も、期待しております。  

2018年11月 1日 (木)

偉大な学者 『ガストン・ネサン』 ご逝去

詳しくは、当ホームページ「 ガストン・ネサンのソマチッド論 」を ご覧下さい

(10年ほど前、HPで公開したレポートです)

学者 『ガストン・ネサン』は、今年(2月16日)カナダのケベック州で亡くなりました。  享年 93歳でした。  その死を惜しむ方は、世界中に何人いるのか?  ごく 一握りかと思います!  しかし 『ネサン』の死に安堵する方々は少なくない筈です。  なぜなら 現代医学にとって、不都合な存在だったからです。  氏曰く:「生体(主に血液中)に 細胞をコントロールする微小生命体“ソマチッド”が存在する」  この理論が立証されると、現行医療の根幹が揺らぎます。  場合によっては、細胞レベルの基礎研究が 否定される事になります。  例えば、再生細胞(iPS細胞)の研究や、ガン排除タンパク PD1(オプシーボ)等。  現実に存在する微小生命体(ソマチッド)を無視しては、如何なる研究も徒労に終わるのです! 

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上の写真は 『ガストン・ネサン』が、70年前に設計した“2万倍率の顕微鏡(トマスコープ)”です。  何と 20代で、ドイツの光学機器メーカーに依頼して完成した高性能顕微鏡と言うのですから驚きです。  現在でも 『ネサン』の造った“トマスコープ”の性能を上回る光学顕微鏡は、世界に存在しません。  医学界は、彼の天才的頭脳を恐れ、トマスコープの存在自体を“インチキ・ニセモノ”と、否定しています。  何と 愚かな事でしょうか?  細胞やウイルスを正確に観察しなければ、次なる医療に繋がる研究など不可能です!  

『ガストン・ネサン』は、1924年“フランス”に生まれ、第二次世界大戦の最中 医学・生物学の道を歩んだ不運がありました。  戦中・戦後の混乱で 医師免許の手続きが遅れた為、フランス医師会から“偽医者”のレッテルを貼られたのが、不幸の始まりでした。  「出る杭は打たれる」 そのものです。  ◎ 自費で、高性能顕微鏡“トマスコープ”を造り上げた。  ◎ トマスコープを用いて“ソマチッド”を発見・公表した。  ◎ ソマチッドを活性化する薬“714X”を造り患者に処方した。  それらの全てが、フランス医師会の反発を受けたのです。  免疫増強剤として造った“741X”が、ガンや難病の“治癒率75%”だったのも、フランス医師会の面子を損ねたのでしょうか?  逮捕・投獄の挙句、国外追放の重い懲罰を受けたのです!

その後 『ネサン』は“カナダ”に渡り、更なる“ソマチッド”の研究に没頭しましたが、フランス医師会の追及は続きました。  フランスでの活動時代、末期ガンの患者を助けられなかったと言う理由で、殺人罪として裁判を起こされたのです。  余りにも 無謀な訴えでした。  結果的に、『ネサン』側の支援者の証言で無罪に終わった様です。(裁判の経緯は、クリストファー・バード著「完全なる治癒」に掲載されています)  現在、問題となった免疫増強剤“714X”は、カナダやアメリカ合衆国および日本で、“ガン&難病”の代替治療薬として承認されています。

『ガストン・ネサン』は、今年 93歳の生涯を終えました。  天才学者 『ネサン』は、世の中から一度もスポットライトを受けず、穏やかに消え去ったのでしょうか?  私は、違うと思います!  カナダに渡り 50年以上、研究室で途轍もない発見をしたと思います。  それが何か 分かりません。  ある日 『ガストン・ネサン』の遺書(研究論文)が、現代医学に衝撃を与えると思います!

2018年9月26日 (水)

『徳川 慶喜』 蝦夷への想い

***** 最後の将軍:『徳川 慶喜』が 大政奉還の後“明治政府”に宛てた“嘆願書” *****
蝦夷地(現・北海道)は、最近まで徳川家が経営して来た地で、人口は極めて少ない未開地である。 この蝦夷地のうち、どこか徳川にお預け頂いて 家来たちを土着させたい。 そうなれば、不毛の地の開拓もでき、そのうえ 徳川の家来たちの生活も安定するするのではないか、お願い致したい」  (北海道開拓史より抜粋)
 
戊辰戦争で大敗した『徳川 慶喜』は、新政府軍(明治政府)に軟禁される中、旧幕府軍(家来達)の行く末を案じて嘆願書を書いています。  書状において、「蝦夷地は、徳川家が経営して来た地」と認めています。  その表現は、決して“領土”・“支配地”と言っていません。  寧ろ、“貿易の地”であり“共存・共栄の地”を強調していると思います。  そんな考え方が、富国強兵(軍国主義)を目指す明治政府の思惑と大きな隔たりがあった為、『徳川 慶喜』の嘆願は受け入れられなかった。  やはり、元将軍を支持する多くの家来を蝦夷地に集結するのに、明治政府は戸惑いがあったと思います。(唯一、亘理藩:『伊達 邦成』による蝦夷地・現伊達市周辺の開拓は許可された)                     
 
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それから150年、『徳川 慶喜(1837~1913)』の想いは実現したのか?  蝦夷の先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”は果たせたのか?  結果は、真逆です!  現在 北海道のアイヌ人は13,000人に激減し、日本の領土に化しています!  それでも、2020年の東京オリンピックの成功を願い“領土”の表現を一切封印し、“北海道命名150年”と“名付け親”を強調しています。  真実でしょうか?  世界に対する安直な“目くらまし”です!  『源 頼朝』の時代から 680年続いた“武家政権”を、安易に支持する訳ではありませんが、明治以降の“軍国主義”やその思想を、『坂本 龍馬』の願い:「日本の夜明け」を成し遂げたと称賛する事は出来ません。
徳川幕府は、蝦夷地の開拓に様々な布石を積んでいます。  決して、銃や大砲で侵略を進めたものではありません。
 
① 『伊能 忠敬』(1745~1818) 蝦夷の地図作成。
② 『間宮 林蔵』(1780~1844) 樺太(現・サハリン)探索 間宮海峡の命名。
③ 『松浦 武四郎』(1818~1888) 地名の日本語訳 「北海(加伊)道」命名。
『徳川 家康』の再来と言われた策士:『徳川 慶喜』は、これほどの調査や実績を重ねたにも拘らず、蝦夷地に武力侵略をしなかった。  そこには、先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”を模索していたからだと思います。  しかし 明治政府を始めとする現政府は、先住民族の処遇に対し 余りにも冷酷です。  “アイヌ人”も“琉球人”も、つい最近まで“土人”と蔑んで来たのですから?  近隣諸国や世界から、日本の政治は“ナマズ”と卑下されるのは当然です!  「人民による人民の為の政治」?  日本の民主主義は、欧米に比べ100年以上遅れているのは、偽りの無い事実です。
 
*ナマズの分類は、「ナマズ(類)ルイ」です。  関連ページ 「シャクシャインの檄」を、是非 ご参照ください。    
 

2018年8月 2日 (木)

“北加伊道”命名 『松浦 武四郎』

今年は “蝦夷地”が“北海道”に改名され、150年になります。
 
1971年、札幌市厚別区野幌に 北海道開拓記念館(現・北海道博物館)が 創設されています。  広大な“野幌森林公園”には、北海道開拓に関する<当時の役所や民家>・<明治から昭和時代の生活用品等を展示する記念館>・<開拓100年を示す高さ100mの記念塔> そこには、蝦夷地が元々日本固有の領土だった事を、何の躊躇いもなく誇示していた様に見えました。(私は 40年ほど前に入場)  不思議な事に、150年の節目では様相を一転しました。  領土とか開拓地など一切表示せず、蝦夷地から北海道に改名した事を強調し、先住民族のアイヌ文化を数多く紹介する方向に転換した様です。  何故なのか?  東京オリンピックを前に「先住民族の権利に関する国連宣言」(先住民族が収奪された土地や資源の原状回復と補償)を、軽視できなくなったからです!
 
「大日本沿海興地全図」を作成した『伊能 忠敬』(1745~1818年)は、派遣役人として蝦夷地に足を運んだ第一人者と言われています。  その『伊能 忠敬』が亡くなった年に生まれたのが、後に“蝦夷地を北海道”と命名した『松浦 武四郎』(1818~1888年)です。  伊勢国(現・三重県)出身で、若い頃から日本中を渡り歩く旅人(僧侶&浮世絵師)だった様です。  幕末(28歳頃)、蝦夷地侵略を企てるロシアの動向を探るべく、単独で 3度 蝦夷地に渡り、アイヌ人との交流を深めたそうです。  それを知った徳川幕府は、『松浦 武四郎』に蝦夷地探索を命じ、先住民族・アイヌ人の調査を依頼した様です。  時代が “江戸”から“明治”に変わって以降も、政府は蝦夷地&アイヌ人に詳しい『松浦』を、“開拓判官”に命じたのですから、まるで“隠密”&“スパイ”の様に感じます。  しかし 合計 6度、蝦夷地を訪れた『松浦』は、“明治政府”の思惑とは全く違う行動を取ったのです。  アイヌ人と友好関係と共存共栄を、独自の判断で模索したそうです。  それは、明治政府の思惑(侵略)と真逆だったのは確かです。
 
私は 近代史の真相を、明確に理解していません。  ただし 北海道に生まれ育ち、真実の一旦は知っています。  日本人に優しく、アイヌ人に厳しい“土人保護法”の実態です。  友人であり知人である郷土のアイヌ人は、生まれながらに“プライド(尊厳)”を、政府に奪われたのです。  日本人に居場所を奪われたアイヌ人は、隠れる様に本州や外国に新天地を求めたのが真実です。  昨年の国勢調査で、北海道在住のアイヌ人は、13,000人程度と発表されています。  とんでもない 数値です。  全日本アイヌ協会の調査では、血族の総数を 20万人と試算しています。  それを政府は、少数民族・アイヌ人の日本人同化政策が、成功した成果と高を括っています。  そんな人権侵害は、世界の潮流に反する暴挙です。  思うに、『松浦 武四郎』のアイヌ人愛とは、全く別物です!            
 
正確には分かりませんが、蝦夷地の先住民族・アイヌ人は、和人(日本人)と“縄文時代”から交流があったのは確かです。  その証は、純粋な和犬・アイヌ犬の存在です。  既に 縄文~弥生時代に、津軽海峡を渡って蝦夷地に運ばれ、優秀な番犬として育ったのです。  それを 明治政府は、強引に“北海道犬”と改名したのですから呆れます。  『松浦 武四郎』は、“蝦夷地”を“北海道”と改名した人物と言われています。  しかし 『松浦』は、“北加伊道”と命名したかったのです。  なぜ “加伊(カイ)”に拘ったのか?  カイ=この地で生まれた者!  先住民族・アイヌの人権を尊重したかったからです。  その考え方は、明治政府の思惑に反するものでした。(いずれアイヌ人は北海道から追放する)  この政策を知った『松浦』は、蝦夷地が“北海道”と改名された時点で、開拓判官の役職と数々の名誉を辞退し、失意のまま“北海道”を去ったそうです。
 
私は、日本政府に対する“不平不満分子”ではありませんが、2020年の東京オリンピックの為に、<北海道開拓記念館⇒北海道博物館>・<土人保護法⇒アイヌ新法>・<2020年に完成予定のアイヌ民族博物館>・・・、見せかけの政策を理解する事は出来ません。  東京オリンピックが目的なら、一時しのぎの愚策でしかありません!
 
下記の写真は 『松浦 武四郎』の生誕 200年を記念し、三重県から依頼され製作した(友人『鈴木 博詞』)札幌雪祭り・市民雪像であり、北海加伊命名150年を強調する意図はないと聞いています。
 
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2018年6月29日 (金)

難病 「サルコイドーシス」

難病 「サルコイドーシス」 を、ご存知ですか?         

厚労省が指定する難治性疾患(難病)は、現在“100種ほど”あります。  スモン病・ベーチェット病・重症筋無力症・パーキンソン病・・・ 発症原因が不明で治療法が確立されていない事から、医学的な研究が急がれます。  医療研究の妨げは、難病の患者数が極めて少なく、患者の把握や追跡調査が難しい所にある様です。  また 少数の患者を対象に、巨額の研究費を使う事が出来ない(少数の患者を切り捨てられない)研究者側のジレンマもあると聞いています。  

それらの難病の中に、“サルコイドーシス”があります。  どんな病気と言うと、「肉の様な(肉芽腫)が、全身の至るところで増殖し患部を侵す病気」、目・皮膚・末梢神経・筋肉・心臓・肝臓・腎臓・・・ ガンの様に転移・増殖しますが、悪性の腫瘍でないのが救いです。  ただし 心臓で増殖すると、心不全や心筋梗塞を起こし、死に至るケースもある様です。  この病気は、100年以上前から知られていましたが、症例が少なく重症でなければ気が付かず、見逃される場合が多い様です。  例え 医者でも、簡単な検査では分からない病気です。  それ故に 特定疾患として、重症患者に対し国が医療費助成を行っています。

実は私、“サルコイドーシス”の患者です。  20代で“皮膚サルコイドーシス”を発症し、長い間 治療を続けて来ました。  40年以上 転移が無かったものの、今になって心臓に転移してしまいました。  症状は“疲労感”と“息切れ”でした。  多分、長年の喫煙が原因で肺の病気を発症したのではと、自己診断しましたが大きな間違いでした。  歩くのも辛くなり病院へ駆け込むと、「心臓が“30%”しか機能していません」と 医者に診断され、即日 入院治療を強要されました。  “CT”・“MR I”・“PET検”・・・ 様々な検査の結果、“心臓サルコイドーシス”と確定診断され、1ヶ月の入院治療を課せられました。  ただし、国が認定する特定疾患には該当しません。  入院時は重症であっても、療養と対症療法のお蔭で退院時は、ほぼ健康体に戻っていました。  サルコイドーシスは、不思議で厄介な病気です。  発症原因も分からず、治療法も確立されていないのが実情です。  私自身 医療研究の実験台に上がる意思があっても、一度 回復した症状を再現する事は出来ません。  何ヶ月・何年後に再発するか予想するのも不可能です。  それ故、難病・奇病なのでしょうか?  取り敢えず、危険な“心臓サルコイドーシス”の危機は免れました!

サルコイドーシスは、世界中に患者が分布する難病です。  10万人に 1~2人の確率で発症する病気で(喘息患者は10万人に 3000人ほど)、発症年代は 20~50代が多い様です。  男女比は、やや女性が多く、北海道など南国より寒冷地に患者が多いと言われています。

 

2018年4月16日 (月)

テレビ版 『蒲田行進曲』

1982年に放映された角川映画・『蒲田行進曲』は、大々的に宣伝・製作されましたので 観た方も多いと思います。  主演(銀次郎):風間 杜夫 脇役(ヤス):平田 満 ヒロイン(小雪):松坂 慶子・・・、舞台劇・新撰組の製作過程に纏わる人間ドラマをパロディ化した “悲劇”とも“喜劇”とも言える映画でした。  やはり、脚本:つか こうへい 監督:深作 欣二 となれば、平凡なストーリーであっても 面白・可笑しく仕上がると感心しました。
 
映画・『蒲田行進曲』が上映されて一年後、TBS系で二週に渡り同題名のテレビドラマが放送されました。  「低予算で造られたテレビ放送が、映画より面白い筈がない」、そんな感覚でテレビを観て驚きました。  『蒲田行進曲』が、映画以上 リアルに仕上がっていたのです。  主演「沖 雅也」 陰のある二枚目役(銀次郎)が、「風間 杜夫」より数段 勝っていました!  何より、演技が素晴らしかった!  何故か?  テレビ版・『蒲田行進曲』が、「沖 雅也」の遺作だったからです!
 
一週目のテレビ放送の後、「沖 雅也」(31歳)は“京王プラザホテル”47階から、投身自殺したのです。  不可解な“死”でした!  テレビ版・『蒲田行進曲』で最高の演技をした役者が、どうして自殺の道を選択しなければならなかったのか?  当時、様々な“デマ”や“憶測”が飛び交っていました。  結論は、精神病である“うつ病”だったからです!  大勢で芝居をする昼の顔と、一人孤独をさ迷う夜の顔と、全く別人だったと思います。  演技が上手くゆけばゆく程、孤独感が倍増する“ジレンマ”が、咄嗟に彼の異常行動に繋がったのでしょう?  惜しむかは、彼に行動を見守る人間(連れ合い)が居なかった事と、適切な治療(投薬)が成されていなかった事です。  そして、俳優「沖 雅也」は死んだ!
 
もう一度、テレビ版・『蒲田行進曲』に戻ります。  「沖 雅也」の病気とは別に、このテレビドラマは素晴らしかった。  やっと芝居の主役を貰った「銀次郎」は、内縁の妻「小雪」:大原 麗子を、子供を宿していながら脇役「ヤス」:柄本 明に、無理やり押し付けます。  「銀次郎」を慕う「ヤス」は、喜んで「小雪」とお腹の子を引き受けます。  それから、「ヤス」の運命は悲惨だ状態に陥るのでした。  生まれて来る子供を養う金を稼ぐ為、命懸けのスタントを続ける事になりました。  舞台・新撰組のクライマックス「大階段落ち」を 自ら志願した「ヤス」は、大怪我を負い生死をさ迷います。  それを知った「銀次郎」は、己を恥じて改心するのが、ドラマの“おち”でした。  ストーリーは、至って単純です。  しかし テレビ版・『蒲田行進曲』は、「沖」が自殺を意識したか否か分かりませんが、彼の演技は悲壮感さえ漂うものでした。  脇役の「ヤス」も ヒロインの「小雪」も、映画とテレビの境を越え 全てにおいて素晴らしかった。(自己満足)  
 
機会があれば、是非ともテレビ版・『蒲田行進曲』を観たいと願っています!
 
 
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2018年4月 4日 (水)

画家 『 岡 靖知 』

若くして実力ある 画家、『 岡 靖知 』の作品を10点紹介します。  日本において 芸術の評価は、決して高くありません。  ルノアール&ゴッホ~葛飾北斎&横山大観・・・、過去の有名画家を認知しても、現在活躍する芸術家に興味は薄い様です。  そこが、問題です。  将来、名を馳せるであろう画家が育ちません。  私は、この様に考えます。  家電や家具を買う感覚で、絵画を心の糧として部屋に飾り、若き画家に先行投資しては如何でしょうか?  これ程、安全・安心な投資はありません!  彼の作品(写実画)を、是非ご覧ください。  要望すれば、貴方が愛する奥さんやお子さん&ご両親や恩人の肖像画を、気安く・お安く 描いてくれると思います。            
 
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今回は、『岡 靖知さん』の承諾を得て10作品を、ランダムに紹介しました。  出来れば、原寸に添った画像をと思いましたが、パソコンでは無理があります。  機会があれば、展示会等で本物の写実画をご覧ください。 
 
“フェイスブック”で知り合った『岡 靖知さん』の誠意により、当ブログに写実絵画の掲載を許可して頂きました。  その時点で、彼の実力を“新進気鋭”の画家と認識していましたが、私の認識が甘すぎました。  既に、日本を代表する“芸術家”だったのです!  『岡 靖知さん』の優しい対応に、感謝する以上 強縮した次第です。
 
< 追伸 > 2018・11・06
・・・・・・ 『岡 靖知さん』の画集が“Amazon”の売れ筋ランキングで3位になりました。
 
既に 日本の画家から、世界に名の知られた画家になりました。  益々のご活躍をお祈りしています。  おめでとうございます。
 
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2018年4月 3日 (火)

“サッチョン”は方言?

平昌オリンピック・パラリンピックは、日本選手の過去最多メダル獲得と、大盛況のまま無事終了しました。  フィギュアスケート・スピードスケート・ジャンプ・・・、手に汗握るシーンが目白押しで楽しめました。  競技とは直接 関係ありませんが、選手の掛け声で印象に残るフレーズがありました。  女子カーリングの競技中、選手が発した「そだね~」が、北海道弁だと言うのです?  しかし 道南の我々は、使った記憶がありません!  例え 女言葉にしても、聞いた事がないのです。  確か子供の頃は、東北弁の「そうだべそうだべさ」を使っていたと思います。(道南の話です)  

サッチョン”は、ある時期限定の北海道弁だと思います。  戦後 朝鮮戦争の特需で日本が経済成長する中、立ち遅れた北海道に中央(主に東京)から 官庁や企業の要人が出向し、国家レベルの地域興しが行われた時期がありました。  多くの要人は、期間限定の単身赴任だった様です。  彼等を 敬意をこめ、道民は“サッチョン”と呼んでいたそうです。  大都会から、開発の遅れた“札幌”に出向するのですから、いわゆる左遷されたと泣き泣き来道したのは理解できます。(僻地に飛ばされた)  そんな彼等が 北海道(主に札幌)の環境に慣れ、やがて中央からお呼びが掛かると“サッチョン”は、再び泣いたと言います。  今度は、帰りたくないと。(経済戦争の最前線に戻りたくない)  それを“サッチョンは二度泣く”と、言った様です!

確か、昭和30年~50年の事だと思います。  その頃から、札幌・特に“薄野(すすきの)”の夜は楽しかった。  酒も肴も、美味かった。  家庭からの束縛もなく、交際費で飲み・食べ放題なら、“サッチョン族”の天国だったと思います?  それから半世紀、札幌は“200万”都市になりました!  しかし 北海道経済は、現在 50年前に戻りつつ疲弊の道を辿っています。  思えば 日本全体の経済成長が、右肩上がりを忘れてしまっている様です!  何等かの“カンフル剤”が必要です?  ただし、医者が処方する“お薬”では埒が明きません!  “企業戦士”すなわち“旧・サッチョン族”を、再び地方に派遣し“一極集中”を阻む事です。

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2018年3月27日 (火)

“青函連絡船”の思い出

・・・ 津軽海峡・冬景色 ・・・    歌手:石川さゆり

上野発の夜行列車おりた時から  青森駅は雪の中

北へ帰る人の群れは誰も無口で  海鳴りだけを聞いている

私もひとり連絡船に乗り  凍えそうなカモメ見つめ泣いていました

あああ あ~  津軽海峡・冬景色

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東北本線&奥羽本線の下り終点“青森駅”と、函館本線の上り始発“函館駅”を結ぶ青函連絡船は、1988年に役目を終えて廃止になっています。  当時、世界最長の青函トンネル(約54㎞)が出来たからです。  北海道と本州が線路で繋がるのは人々の悲願でしたので、青函連絡船の終航は致し方の無い事です。  しかし、便利とは言えない列車&連絡船の旅は、ドラマに似た儚い思い出あるものです!  特に、狭い列車から解放されデッキで潮風を浴びると、身も心も最高の気持ちでした。  良い事も悪い事も、全てが思い出です!  

確か私は、10回(5往復)ほど連絡船に乗ったと思います。  最大の問題は、時間が掛かる事です。  本来 青森と函館は、最短距離で30kmしかありません。  青函連絡船の航路は、両港まで総延長113kmと長過ぎました。  津軽海峡を渡る時間より、陸地に沿って走る時間が、遥かに長かったのです。   80年(1908~1998年)の長きを、暫定的に運用したのが真実です。  また、巨大な列車(SLが主)を青函連絡船に、積み下ろしするのも時間が必要でした。  1日に十数本、青函連絡船を担当する国鉄マン(現・JR職員)は、仕事とはいえ大変だったと思います。  僅か30kmを移動するのに、約6時間 今では考えられない“タイムロス”でした!

私が“青函連絡船”を最後に利用したのは、1970年代前半だったと思います。  急用で東京へ行ったものの、帰りは年末で列車の予約が困難でした。  止む無く、各駅停車の在来線に乗ったのが、悪夢の始まりでした。  SL(蒸気機関車)で遅いのは当然ですが、搭乗客は優に“500%”を越えていました。  荷物を抱えた乗客が、客室に押し込まれたのですから、状況は想像できると思います。(現在の満員電車の比ではありません)  上野駅~青森駅まで14時間、何人も具合が悪くなり途中下車したか分かりません。  若かった私は、辛うじて苦難を乗り越える事が出来ましたが、こんな地獄の様な経験は二度としたく無いと思った次第です。  青森駅に到着し、青函連絡船に乗って6時間は天国でた。  連絡船のデッキに立って、冷たい潮風を受けた時、身も心も生き返る思いでした。  函館へ着き 再びSLに乗って4時間、24時間の旅は終わりました。  それ以降、“青函連絡船”も“国鉄”(現・JR)も利用していません。  既に、航空機が有ったのですから!          

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2018年3月15日 (木)

画家 「セルジュ・マーシェニコフ」

ロシアの新進画家「セルジュ・マーシェニコフ」の作品を紹介します。  1971年生まれですから、現在 46歳(画家としては若手)だと思います。  彼は、自分の絵画をツイッターで公開し、世界中から大きな反響を受けています。  芸術とは何か?  観る側が感動する事です!  「写真の様で写真でない」 そうです。  努力と感性で、写真と見違える絵画が出来るのです。  ただし 素質が無ければ、ただの似顔絵です。  画家「マーシェニコフ」は、いわゆる天才肌です。  年を重ねる程に、完成度が一層 高まると思います。
 
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他にも作品を観る事が出来ます。 入場は、こちらから。  

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